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努力は報われない
努力は報われない。
努力は報われると信じて、いろんなものを犠牲にして努力しても、いい結果なんてそう簡単に手に入らならない。
むしろ、努力したのになぜうまくいかないのかとショックが大きくなったり、努力するためだと多くのことを排除して何も手元に残らなかったり、私は頑張ってるから輝いていると現実から目を背けて自惚れたりする。
もちろん、行動することも、行動を続けることも大事だ。しかし、努力はしようとしてするのではなくて、結果として努力になっているべきなんだ。
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努力が推奨される日本
なぜ日本人は努力が好きなんだろう。なぜそこまで努力を推奨するのだろう。
いや、日本生まれ日本育ち日本人のぼくには、海外の努力という観念を知らないのだけれど、ただ偉人たちが努力をしてきたかというとそうではないのではないか。エジソンもアインシュタインも努力するような人ではなかっただろう。
そう言うと異論を唱えられるはずだ。有名な名言があるではないかと。
エジソンの「天才は1%のひらめきと99%の努力」という言葉。しかし、これは意味を勘違いされていることで有名だ。本当の意味は、天才だって99%の努力をしていて、ひらめきは1%だけだという意味ではない。1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄であるという意味だった。むしろ、この言葉自体が取材記者に間違って作られた言葉で、この言葉の誕生時にエジソンが言いたかったとされていることは、1%のひらめきがあれば99パーセントの無駄な努力をしなても大丈夫だという意味だった。
また、アインシュタインは「天才とは努力する凡才のことである」とは言ってはいるが、「私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ」と言っている。アインシュタインは苦しんで行動していたのではなく、好きなことに熱中していたのだ。
確かに二人とも、そして世に大きな結果を残す人は、壮絶な過去があったり、失敗をたくさんしてきたり、それでいて諦めずに立ち上がったりしてきていて、それは努力のように目に映るかもしれない。
しかし、日本語の努力という言葉からイメージするものとは違うように思う。日本語で努力するという表現は、汗水流し、身を粉にし、余計なものには目もくれず我慢しながら、目的のためにひたすら動く。そんなニュアンスに感じている。
エジソンやアインシュタインはそんな努力をしたのだろうか?いや、性格から考えると彼らはとにかく好きなことに夢中だったのだと思う。エジソンは「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」と言っている。努力して失敗から這い上がってるのではなく、失敗すらも楽しんでいたのではないだろうか。その上でひらめいていて、そのひらめきを前には努力も無駄だと捉えた。アインシュタインは数学と物理は出来たが、他の科目の成績はすごく悪かった。そもそも勉強しようとしなかった。努力して他のことを排除しているのではなく、そもそも好奇心がないものには全く目がない。そして、好奇心があるものには尋常じゃない力を注ぎ、それが努力のような、天才な結果を出した。
「とにかく好き」
その上にある行動には、努力が遠く及ばない効果がある。
だいたい、自分から努力していると言う人に限って、あまり努力をしていなかったりする。嫌なことはとても時間が長く感じるけれど好きなことはあっという間だと言うが、努力していると思っていると体感ほど行動していないし、夢中になっていると本人は行動してないつもりがものすごく行動をしている。
ところで、ぼくはよくこう言われる。
「がんばって生きてきたんだね」
しかし、生きるためにがんばろうとしてきたのだろうか?いや、只々生きたいから必死に生きようとしただけだ。結果的には時間も力も費やし、苦労もし、努力をしているように周りからは見えたかもしれないけれど、自分で努力をしているという認識ではなかった。生きたいから生きようとすることを好きと表現するのはなんかちょっと違うけれど、生きたいという願望からの生きようとする行動は好きで行動することと類似しているように思う。
努力は報われると思って頑張っていたら、行動一つ一つを苦痛に感じ、本当に努力は報われるのか疑問に思い考えてしまい、不安になって、心が折れていたかもしれない。
努力は報われる?
「努力は報われるのだろうか?」
そう考えた時点で努力は報われなくなる。不安になって、余計なことを考えてしまい、行動に支障が出るから。しかし、好きで夢中で必死ならそうなることはない。
また努力は報われると信じて行動することに対してこう考える人がいる。
「私の努力している姿は美しい。」
得たいものがあって努力して行動するべきなのに、到達点ではなく中途半端な途中経過に目が行ってしまっては、ずっとその途中地点にいるだけだ。目的があったり、夢中になったり、その上での行動が他人から見て努力しているように見えるのはいい。たしかに美しい。しかし、自分で努力していると認識し、目的を達成することではなく、目的のために努力している自分に美学を感じてしまったり、それを褒めてもらおう、認めてもらおうとするのは話が違ってくる。がんばっただけ、例えば「かけっこで、転んじゃったけど最後まで走りきって偉い!」なんて、結果関係なく途中経過で褒められるのは小学生までではないだろうか。毎日夜遅くまで仕事して頑張ってるとかそういうのは、努力している自分に酔っているのかもしれない。冷静に分析すればダラダラ仕事していて効率が悪いか、必要な仕事と不必要な仕事の取捨選択をして整理できていないから非効率な無駄作業を多くしているか、そんなところだろうに。
努力しようとしてした努力は報われない。
努力は目的じゃない。努力は自分で意識するものじゃない。夢があって、目的があって、必死に夢中に突き進進んでいるその様子を、他人が見て努力と認識し、それが美しいだけで、自分自身では努力していると自惚れるな。
努力する前に好きになれ
みんな行動してるし、みんな我慢してるし、みんな頑張っている。なのに同程度で自分は努力してるとか思うからダメなんだ。当たり前のことは努力じゃない。その上の行動に努力がある。しかし、その上の行動が、好きで、夢中であることによるものなら効果は青天井になる。
好きになればいい。夢中になればいい。
好きなら時間を忘れて行動し、何度失敗しても立ち上がり、行動量あたりの成長濃度も高くなる。そして楽しい。
もし、好きじゃないけれどやらなきゃいけないことがあれば、好きになるために努力すればいい。目的のための行動を努力するのではなく、目的のための行動を好きになる努力をするのだ。好きになった後は努力しなくたって力を注ぐし、結果が付いてくる。
夢があり、その夢を追いかけているとする。しかし、夢のために必要な工程を、好きで夢中になれなれないのなら、その夢は叶わないし、そもそもその夢はもう夢でないのかもしれない。
自分自身は好きで、夢中で、必死で、全力で突っ走る。それだけでいい。努力しようとは考えない方がいい。努力しようとして努力するのは、周りが見えなくなるし、努力している自分に自惚れるし、実際より行動していると勘違いするし、報われなかった時に落ち込むし、そもそも報われない。そんなことは考えずにとにかく行動するべきだ。その行動が周りから見れば努力になる。それは美しい。自分は努力しているつもりじゃなくても、周りからは努力しているように見られるのが良い。それが続くと結果が付いてくる。努力とは、しようとしてするものではなく、結果を得た時にはじめて無自覚にしていたと気づく過去の行動のことであるべきだ。
努力は報われると思ってした努力は報われない。とにかく好きになり、夢中になり、行動すればいい。そしたら結果は付いてくるし、結果的にその行動は努力になる。