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夢は持たなくて良い
「夢を持って努力して生きるべし」
親が、学校が、社会が、そんな考えを崇高しているように思うけれど、ぼくは「夢」と「努力」が嫌いだ。大嫌いだ。
ぼくは、「夢」を捨てたからどんどん夢が叶って、「努力」を捨てたから努力家だと言われるようになった。
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過去の夢
話は幼稚園時代まで遡る。幼稚園生の頃のぼくの夢はおもちゃの開発者だった。理由は簡単。自分が欲しいおもちゃを自分で作ってしまえば遊び放題だからだ。そして、小学一年生になってエジソンの伝記を読んだ時に夢が変わった。「あれ、大人になったらおもちゃ開発しても売る側じゃん。自分では遊ばないじゃん。」そう思った。考えることが好きで、新しいものを生み出したいという気持ちが強く、夢はおもちゃの開発者から発明家になった。
発明をしたいならば勉強をしよう。その流れで小学校高学年の頃、相対性理論に興味を持った。うーん、発明って仕事ではなくて趣味でいいかも。じゃあ、時間を費やして仕事にするのは物理学が良い。そうして、将来の夢はノーベル物理学賞をとることになった。
夢は希望の一例でしかない
でも、だんだん気付いてくる。「あれ、ノーベル物理学賞受賞するって難しくない?」と。夢を実現するために努力が必要だと人は言うけれど、努力したって大半の夢は叶わないことを人は知っている。リスクは高いし、期待値は低い。そこまでしてノーベル物理学賞取りたいのかな?そう考えてしまった。ぼくは、物理学が好きなだけで、それは仕事でも趣味でもよかった。そして、物理が好きというのは、不思議な現象を解明することが好きだという一例でしかない。実際、今はその欲求がWEBサイトや、スマホアプリの開発で満たされている。ノーベル物理学賞を取りたいと考えたのは、生きた功績を認められて、生きた爪痕を残したいという希望の一つの形でしかなかった。
ケーキ屋さんになりたかった小学生が、高校生になってケーキ屋でアルバイトをして、ケーキに一生を注ぎ込みたいと思ったのならば、その気持ちは誇りにするべきだ。しかし、ケーキが好きなだけならば大人になると自由に自分のお金でケーキを買えるし、ものを売って人の喜ぶ顔を見ることを求めるのなら、他にも仕事はたくさんある。
5年しか生きてない幼稚園生が将来何を夢にして生きることが幸せで正解なのかわからないように、数十年生きても、数百年生きても、人生ってそんなに簡単じゃないから、多くの人は自分が何を目指し、どう生きるのが一番の正解かなんて、わからないんじゃないのかな。
夢を叶えるために夢を捨てる
だから夢なんて捨てちまえ。
そして、一度捨ててから、生きる上で何を大事にしたいか考えてみる。ぼくは、人生を最大限に楽しみ、生きた功績を残したい。そして考えたり、解明したり、知ることが好きで、新たな価値を世に生み出したい。それが根底にあった。なんてシンプルなんだ。
そして、今出来る、身の回りの好きなこと、必要なこと、わくわくすることを片っ端からこなしていく。通った道の分、人は成長するのだから。
最初にゴールを決めて逆算する。残念ながらそんな簡単に、あみだくじの如く人生は上手く攻略出来ない。でも、気になるものを追って、その場その場を楽しんで、一つ一つ何かを手に入れたら、気がつけば捨てた夢より大きなものを手に入れているかもしれない。
固執した大きな夢はいらない。一つの大きな夢を描くよりも、抽象的にしてみたり、分解してみたり、研いでみだり、合体させてみたり、捨てちゃったり、拾ったり。そうすれば大小様々な目標が、夢が、希望が出来てくる。当然、中には行動すればすぐ実現する簡単なものもあるし、大きなものだって行動しているうちにいつの間にか叶っちゃってたりする。一つに囚われているのと違って、不安や挫折することなく、常に希望に満ちて歩き続けることが出来る。
「努力」を捨てたから努力家だと言われるようになった話はまた今度。