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にしくんって何者?
にしくんは何者なのだろうかと騒がれている。
正直、ぼくも自分が何者かなんてわかりきれていない。けれど、ちょっと整理して生い立ちとか、病気とか、過去の仕事とか、今後何をやりたいかについて書いてみる。
ただ、このブログでは真面目なことを中心に書くので、不適切な表現は省略したり、隠語にしたりしている。
著者にしくんについて
ブログ移籍しました
「にしくん」は"KOHEY NISHI"にメイン活動名を変更し、ブログを移籍しました。・「にしくん」から”KOHEY NISHI”にメイン活動名を変更する
・KOHEY NISHI’S CBD ONLINE SHOPとは?|CBDエバンジェリスト
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幼少期と病気
生まれは東京。生まれた時の身体はデカかった。そう。その赤ちゃんの頃は同い年に比べて、デカかった。
しかし、3歳のある朝、異変が起こる。
身体が左半分が動かない。
顔も左半分が動かない。
救急車に運ばれる。横紋筋肉腫という小児がんが脳に出来ていた。3歳なので、異変にすぐ気づかず、進行も早く、小さな脳にはすでに、腫瘍は簡単には取り出せないほどに複雑に張り巡らされていた。
杏林病院という十分大きな有名な病院だったが、3歳の脳腫瘍なんてなかなか難易度が高く怖くて弄れるお医者さんはいない。しかし、一刻を争う。そして、偶然優秀なお医者さんが東大病院から来ていて、手術をしてくれた。(だから東大に行こうと子供の頃は言ってたのに、結果は高卒で申し訳ないと少し反省している。少しだけだけど。)
どうにか外科手術は無事に終わった。手術が終わり、身体が動けるようになったのを久々に見た時の、両親の喜び、泣いて、驚いき、笑った瞬間は今でも鮮明に覚えている。
外科手術が終わったからといって安心できない。むしろ勝負はこれからだ。国立がん研究センターで抗がん剤、放射線治療、自家骨髄移植。20年前の3歳の脳の小児がん、治る望みは薄かった、、、が無事に治って2年が経過した。後遺症は今でもたくさん残っているが、とりあえず完治した。
しかし、治った2年後の6歳。安心してから異変に気付く。
あれ?背が伸びていない?
次はムコ多糖症モルキオ病という病気が見つかった。病気については詳しくは難しくてぼくもわからないけれど、進行性の難病だ。骨が伸びなくて、骨が変形して、歩けなくなったり、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、人工呼吸器を付ける必要が出て来たり、車椅子にはなるし、寝たきりになるかもしれない。20歳まで生きられるだろうか。ざっくりそんな病気だと幼いながらに理解した。
でも、1年も生きられないかもしれなかった人間にとって、とりあえず10年以上は生きられるならこの難病はたいしたことなかったりもした。たいしたことないと言うと、大袈裟で強がりかもしれないけれど、むちゃくちゃ大きな山を登った後にそれなりに大きな山を登らなきゃいけなくなったようなもんだ。一度奇跡的な回復で治しちゃったら、今度の病気も奇跡起こして治しちゃうでしょみたいな。
本当は超ネガティブな母が、ぼくの前では笑顔でバカポジティブなことばかり良い、その考えを脳に吹き込みまくって育ててくれたことには大変感謝する。
実際、今はムコ多糖症にハイリスクな上に効果がないと言われている骨髄移植に挑戦することにし、ドナーが見つかって、無事に成功して進行が止まった。一度悪くなったものは治せないが、悪化を食い止めることができた。それが7歳の時だ。
学生時代
小、中学生の時は身長はすでにダントツで低いし、歩くのもキツい。父の「出来ないことがある分、ものすごく出来ることを作って補えばいい。」という教えから、勉強を少しはしていたが、人と違うことをしたい性格で学校の勉強は授業を聞くだけでノートも取らず予習復習もせず、自分勝手に授業外(小学生の頃に数学勉強、漢字テスト前に難読漢字の本を読むなど)をして、ズレていた。クラスで友達と馴染むのも苦手。あとはゲームばかりで家と学校の行き来のみ。
6年男子校の進学校で、15歳の春、高校生活は全て勉強に注ぎ、東大に行こうと思っていた。そこで、本格的に勉強する前に、外の世界が見たくなった。足が悪いぼくは、一人でコンビニに行くことすらハードルが高かった。逆に言えば、どこに行くのも大変なぼくには、行く場所によるハードルの違いは大きな差ではなかった。
だから、mixiで「高校生 イベント」で検索したところへ行った。
それが、人生を大きく変えることになる。
歌舞伎町のライブハウスのようなところで、運営も客も高校生だけれどお酒が出てタバコの煙がすごい。男子校進学校の障害者にとっては完全に場違いだった。入った瞬間出たくなった。
そしたら、「きゃー!かわいい!」
派手な髪に、大胆に開いて見える胸の谷間にいい匂い。そんな女性がいきなり抱きついて来てかわいいと言って来た。
人としての魅力がなく、勉強でカバーしようとしていたぼくの頭のネジは壊れた。
数学が好きで、物理学に興味があったから。というのもあるが、自分に人間としての価値を見出せず、将来身体がどこまで動くかの不安もあり、頭さえ動けば生きていけて、現実逃避のように楽しめるという理由で将来の夢にした物理学者という選択肢は、はたして正解なのだろうか。たった15年という家と学校と病院だけの生活しかして来なかった人間が、この先の大人の人生、もしかしたら1年ないかもしれないけど、なんだかんだまた奇跡起こしてあと100年近く生きるかもしれない先を諦めて決めつけて良いのだろうか。
そう疑問に思ってから行動的になった。
ずっと引きこもってたので爆発力があった。
高校時代。渋谷のギャルサーと遊び、イベント団体に所属し、東大の学生団体に行き、区の委員会活動、経営者の話を聞きに行き、気になった人にはメールして会いに行く。大学ではなく、高1の頃からしていた。16、17歳で低身長のぼくは、どこへ行っても覚えられるし、面白がられる。
人に会うということはものすごく勉強になった。その代償に、学校では授業中寝てばかりになり、数学は最高時から偏差値30落ちるほどバカになっていた。
高3になる時、親と先生に言われた。
「今すぐ死ぬ訳じゃないだろ?目先のことより将来を考えろ!」
その言葉がぼくを逆に動かした。病気ですぐ死ぬ訳じゃないけれど、自然災害、事故など、いつ死ぬかもわからない。保証されていない未来のために今を犠牲にしていいのだろうか?
勉強は将来の可能性を広げるというけれど、広げたぶん薄くなり、どれも中途半端で逆にダメにならないか?
就職するのでなければ学歴なんていらない。
周りは全員受験、大学進学する環境だったので、とりあえず勉強と受験はした。けれど、身が入らず落ち、浪人するつもりはさらさらなかった。海外にでも行って生き方を模索したいと思ったけれど、親には反対されるし、お金もない。
高校卒業後はニートになることにした。
にしくんの仕事と生き方
ニートとは言っても、1日でも早く家を出たかったので、片っ端からお金を稼ぐ方法を模索した。10代の頃は、社会人の集まる場のどこに行ってもだいたい最年少になる。最年少特権というのは、可愛がられて、奢ってもらえて、良いことづくしだ。だから、片っ端から人に会って勉強した。
正直言うと、ネットワークビジネス、情報商材屋、詐欺師、宗教団体、、、と危ない世界ばかりに広がった。どれも、ほどほどの距離感を保ち、巻き込まれないようにはしたものの、自力で稼ぐというのはそう簡単ではなく、なかなか実家を出られない日々。
そんな時、女性エンジニア(後の師匠)に「にしくん、エンジニアになってiPhoneのアプリ作りなよー!」と言われ、アドバイス、導きまでして頂き、某IT企業(後に上場)の正社員になる。しかし、その会社の好きだった先輩は海外を渡り歩くと言ってすぐに辞めてしまい、好きだった上司も他の部署に移ってしまう。そして、いや、人と違うことや自分が必要とされていることが嬉しい自分には、業務をこなすことが条件でそれさえ満たせば代わりがいる会社員はやっぱり似合わない世界だなと思い始めた。
だから副業禁止だけれど、独立したい一心でアンテナを張り色々な活動をして来た。そこで、偶然上手く転がって行ったのが性の業界だった。
性の世界は、偏見も多くある。しかし、性があるから人生が豊かになり、命が繋がる。障害者と性は尚更タブー視される。しかし、障害があったって人間だ。だったら、自分がこの世界を切り開くのは面白いんじゃないか。草食系社会の現代、僕が性を表現したら障害者以前に、あらゆる人を奮い立たせるかもしれない。間違いなく、人々が考えさせらる機会を作ることになる。富、名声、力も手に入る。生き甲斐になりうる。これはぼくにしか出来ない。やるしかない。そうして飛び込みもっと加速させた。
これから何をしたいのか。別に、人生の全てを性業界でやっていこうとは思っていない。子供の頃、なぜ自分は生きているのだろう?生まれて来てしまったのだろう?誰の役にも立たないし存在が邪魔なんじゃないか?そう思っていたぼくにとって、世の中に影響を与えることが快楽であり、今はそれを満たすのが性業界なだけだ。実際、批判もあれど賞賛もあり、心底楽しくて、生きてて良かったと思えている。
常々、自分には何が出来るのか?自分にしか出来ないことはないか?それを探し求めているし、見つければ積極的にやって行きたい。生きたい。
座右の銘は「最高の死を迎えるために、今を全力で生きる。」だ。
昔は命が長くないと思われていたが、今となっては別に特別短命ではない。けれど、ぼくも、誰でも、生きている限り災害や事故、急なガンなどの病気でいつ死ぬかわからない。そして、終わり良ければすべて良しと言うが、逆に終わり(=死ぬ瞬間)を後悔してしまうと人生全体、生きたことが苦しくなると思うのだ。
だから、今を最大限に楽しみ、世に影響を与えていることを、常に絶えず体感する道を選んで行く。